Yasuko matsui biography definition



[MEMRES-5]...

松井康子

松井 康子(まつい やすこ、1939年10月3日 - )は、日本の元女優。本名同じ。牧 和子(まき かずこ)の芸名でも活動した。

来歴・人物

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父・松井久(山口県下関市長松井信助の三男[1])、母・宏子の娘として東京府東京市世田谷区に生まれる。母方祖父の小笠原長生は子爵であり、松井の母・宏子は華族の出である[2]。学習院初等科・学習院女子中等科・学習院女子高等科を経て、1958年4月、学習院大学文学部に入学。

1958年の秋、通院していたかかりつけの歯科医が松竹の嘱託医であったことが縁で、松竹社長・城戸四郎にスカウトされる[3]。大学を中退し松竹に入社。

1959年、内川清一郎監督の映画『パイナップル部隊』でデビュー[3]。当初は大部屋女優で、デビュー作となった同作品でも端役であった。その後も松竹の脇役女優として活動[3]。1960年には『江戸の顔役』・『流転』、1961年には『背徳のメス』・『風来先生』、1963年には『港に消えたあいつ』等にいずれも脇役として出演した。

1963年、若松孝二が助監督を務めたテレビドラマに出演した後、若松から「自分が監督になったら出てくれ」と国映映画への出演を請われる[3]。同年「牧和子」の芸名を名乗り、若松監督作品『おいろけ作戦 第一部 プレイガール』でピンク映画にデビュー、初主演を果たした[3]。翌1964年には小川欽也(小川和久)監督の『妾』に「牧和子」名義で出演[4]。同作品は大ヒットとなった[3]

たて続けに国映映画に出演しヒット作を得て、山本富士子似と言われた純和風の美貌と豊満な肉体が評判になる[3]。一方当時松井は松竹に所属していたことから、五社協定による規制の下、松竹側がこれを問題視。結局松井は松竹を退社し、以後フリーで活動している[3]

国映には「牧和子」名義で、他社作品には松井康子の本名で出演するようになった。150本以上のピンク映画に出演し、ピンク映画女優のパイオニア的存在となる[3]。また、豪放磊落な人柄もあ